自然な写真は、自然に見える写真と表現する方が自然かもしれません。
日常の一コマを撮影したいと考えている私も、ふと自身の想いに対して矛盾を感じる瞬間があります。
本当に日常の一コマだったら、「私」という非日常的な存在が撮影している時点でそれは「いつも」ではないのではないかとか。
自然な写真も撮影したいけど、「こうしてみようか?」と提案している時点で自然ではなくなっているとも思います。
じゃあ、私は何を撮影したいのだろうか?
じゃあ、私は何を撮影することができているのだろうか?
そんな、時々ぶち当たる矛盾した想い。
でも、そんな矛盾から生まれる「だからこそ」というその時々の答えのようなものが見つかる事も知っています。
私が撮影したいものは、やっぱり家族の「いつも」の姿。
その場所、時間、空間に誰もが自然体に存在していて、自然体に存在している互いの存在を認め合っていて、求めあっているような誰にとっても心地よいと感じている瞬間を写真として残す事。
より、自然な姿が写真として表現した際に際立つような仕草や場面を提案すること。
日常の中に、私が存在していても、日常の「いつも」の自然体な姿を映し出せるように緊張感を与えずに、リラックスさせることが
出来るような声掛けをすること。
こんなにも、私たちが生きている日常という世界が美しい世界なのだという事を撮影を通して感じあえるような。
こんなにも、私たちが生きている「今」という世界がかけがえのない世界であり時間なのだという事を再確認できるような
表現が出来るような撮影技術を磨くこと。
それが、私が私として仕事をやり通すこと。
そんな仕事を続けていくために。
今まで撮影した写真を見返したり。
今までの自身の在り方を振り返ったり。時に反省したりして。
次のシーズンに備えるための「今」を過ごしたいと感じている今日この頃です。
今年は、アウトプットよりも、インプットを増やしたいなと思っています。
もっと、基本を学びたい。もっと、元祖を知りたい。もっと根本的な「家族を撮影すること」「人を撮影すること」の意味を
問いかけたいなと思っています。
依頼してくれたご家族様に「この時間を一緒に過ごせてよかった」と思ってもらえるような。
信頼し続けてくれているご家族様に「これからもお願いし続けたい」と思ってもらえるような。
何年後も、見返したい瞬間を提供できるような。
そのためには、まず、撮影者である私自身が「今この瞬間」に集中できるような技術と、心動かされるような瞬間を
沢山今まで以上にアンテナを張る事。感動出来る自分であり続けられるための方法を模索し続けること。
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