私がまだ、高校を卒業して専門学生をしている時に一緒に住んでいたおじいちゃんが亡くなりました。
おじいちゃんが亡くなったときに、おじいちゃんの棺桶の中に写真とお手紙を入れたいとおばあちゃんが話をしてくれたので親戚家族で遺影に使う写真を探すついでに過去のアルバムを引っ張りだした際に、写真の多さに驚きました。
そこには、私が知らなかった今までの家族の歴史が沢山残されていました。
そこには、私が知らない家族の姿も沢山残されていました。
写真を通じて、知る事、初めて耳にする事が沢山ある事に気づきました。
すごく、それが不思議で、すごく、それがかけがえのない瞬間に感じて、感動をしたことを今でも思い出します。
つい、先日。
そんな私に写真を残すということの楽しさを気づかせてくれたおばあちゃんが亡くなりました。93歳でした。
亡くなる直前まで、デイサービスの仲間と楽しく過ごしたり、字を書いたり、折り紙で作品を作ったりと創作活動もカラオケも楽しんでいたおばあちゃん。
だからかな。なんも根拠はないのに、勝手に99歳のお祝いもきっとするんだろうなと思っていました。
ですが、あっという間に、旅立ってしまいました。まるで、皆に迷惑をかけないようにという生前の心遣いが伺えるように。
翌日に病室を訪れる予定だった私。
思わず、「明日来る予定だったんだよ~!?」と、手を握りました。
まだ、あたたかくて、余計に泣けました。
見やすいように、私の父が拡大コピーをして病室に貼ったという家族の写真とおばあちゃんの作品たち。
写真を見ながら、家族の話をする時間。
こんな場所でも、写真の力と価値を完全に見せつけられ、感じさせられました。
残しておきたい瞬間があるときに、カメラを手にする。
残しておきたい瞬間には、残しておきたいと心を動かされた風景や、物語がいつも存在しているように感じる。
それを、じゃあ、のちにどうする?
私の中での答えはやっぱり変わらない。
カタチにすること。現像すること。目に見える、手に取れるカタチに残すこと。
おばあちゃんの遺影写真は、おじいちゃんの時とは違い、わりとすぐに見つけられた。(おじいちゃんどんまいwww)
それは、写真を撮る事も撮られることも好きだったおばあちゃん。だったから、写真は結構撮影も直前までしてたし、おばあちゃんが手に取って見返せるように父や親せきの叔母が叔父がすぐにプリントアウトしていたから。
色々な場所へおばあちゃんを連れ出してくれていたから☺️
こういうときに、元気なうちに写真を沢山撮影して残しておいてよかったと思いました。
病院にお見舞いに一度訪れた際に、一応カメラを持参していた私でしたが、バッグから一度も出すことはありませんでした。
お洒落が大好きだったおばあちゃんだったから。結構いつでも、写真を撮られてもOKな人、でしたが。
鎮痛剤の副作用で辛そうな姿を、そして、お洒落にうるさいおばあちゃんの身なりが整っていない姿を撮影する勇気が私にはありませんでした。
なので、もう少し元気になってから一緒に写真を撮影しよう、と思っていたら間に合いませんでした。
棺桶の中にはお気に入りのシャツと化粧ポーチとバッグと首にスカーフを巻いた。あと手紙。
手紙は、書いている最中、その人のことでいっぱいになる。
便箋や封筒を選んでいる時点で、相手のことを考える。
手紙を書きながら、やっぱり最後は、涙が止まらなくなった。
今、こうして思い返しても。
結構、私の現在の価値観はおばあちゃんからの影響が多かったことにも気づくことが出来て、少し幸せな気持ちになれました。
写真の中で、再会できる笑顔。
写真を撮影した際の、一緒に過ごした時間そのものが、1枚の写真に無限の価値を与えることを改めて実感した出来事でした。
おばあちゃん、ありがとう。
手紙、おじいちゃんと一緒に読んでね。おじいちゃんと仲良く過ごしてね(喧嘩が多いように感じていた2人だったからねwww)
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